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海を渡り「世界」を見た日本人

海を渡り「世界」を見た日本人

海を渡り「世界」を見た日本人 150 150 東大生が教える個別指導塾【シンカライナー】東京・高田馬場

On February 10, 1860, at the end of the Edo period, a ship left Japan to cross the Pacific.” 江戸時代末期の1860年2月10日、1隻の船が太平洋を横断するために日本を出発した、という文でこの文章は始まります。先日授業で読んだ長文問題の文章です。英文のレベルは公立・私立高校合格レベル。中学3年間の英語の授業で習ったことを押さえていれば、比較的平易な文章です。1時間の授業のなかで生徒といっしょにその文章を読み、内容を確認していったのですが、読みながらこの話の展開が気になりました。そういう出来事があったことを知らなかったし、ストーリー展開のあるものはどうしても先が読みたくなります。

 ”Before this voyage, in 1853, the Kurofune, or Black Ships, came to Japan. They wanted Japan to open its doors to the world. At that time, many people were afraid of the ships, but some people thought that Japan should learn more about world.” —この航海よりも前、1853年に黒船が日本にやってきた。彼らは日本が開国することを望んでいた。当時、多くの人々は黒船を恐れたが、日本は世界のことをもっと学ぶべきだと思う人々もいた。

 このテクスト全体を要約すると—。幕府によってアメリカへ派遣された日本船、それは長く困難な航海をするために十分な大きさの船ではなかったが、船に乗り込んだ人々はこの航海を成功させたいと思った。その船には日本人だけでなく、11人のアメリカ人も乗っていた。彼らは航海経験豊富な優れた船乗りたちだったが、日本人たちは彼らの助けを借りずに太平洋を横断できると信じていた。しかし航海は容易ではなかった。船はしばしば嵐に巻き込まれ、経験が乏しい日本人たちは悪天候で体調を崩し、船を操ることができなかった。ある日とても大きな嵐が来て、船を制御できない日本人にかわってアメリカ人の船員たちが操縦しはじめた。何人かの日本人が彼らに加わった。彼らの作業のおかげで船は嵐を抜け出した。これ以後、日本人とアメリカ人は協力しはじめ、以前よりも意思が通じ合うようになった。3月17日、彼らを乗せた船は無事にサンフランシスコに到着する。その船の名は咸臨丸といい、福沢諭吉やその他の若い日本人たちがその船に乗っていた。アメリカ滞在中に多くのことを学び、新しい思想を日本へ持ち帰った彼らは、明治時代に母国のために熱心に働いた。

 このエピソードに興味をもったわたしは、授業の後で、このテクストの題材となっている「咸臨丸」について簡単に調べてみました。1860年に日米修好通商条約の批准書を交換するために、遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号で太平洋を横断するのですが、この咸臨丸はポーハタン号の別船として出帆した船だったのですね。この咸臨丸の指揮官をつとめたのは勝海舟。福沢諭吉や、通訳としてジョン万次郎も乗船していました。この時福沢は25歳、艦長の従者としてアメリカの地へ赴くことになります。サンフランシスコではレセプションや宴会が行われ、彼らは熱烈な歓迎を受けたそうです。

 この航海の前、黒船の来航が日本の人々を驚かせた1853年にはこんな出来事もありました。一人の藩士が仲間とともに黒船に乗り込んで渡航を試みます。幕府の監視を逃れてこのようなことを試みるわけですから、これは密航となり、見つかってしまえば命の保証はありません。身の危険を冒してまでこのような行動に出た藩士の名は、吉田松陰です。この時彼も25歳。小舟で漕ぎ着け、乗り込もうとする彼は相手方に文書を託します。そこには「私たちは世界を見てみたい」という旨のことが書かれていたそうです。結局彼の願いは聞き入れられず、捕らえられ、投獄されてしまいます。しかしその後出獄した彼は故郷に戻って松下村塾という塾を開き、藩士の教育に力を注ぎます。この塾で若き日の高杉晋作や伊藤博文、山縣有朋らも学びました。

 咸臨丸でアメリカへの訪問から帰国した福沢は、その2年後に幕府の遣欧使節としてヨーロッパにも渡っています。ロンドンで開催されていた万国博覧会を視察した際には蒸気機関や電気機器、植字機に触れたり、ペテルブルクでは外科手術を見学したりしたそうです。また幕府から支給されたお金で大量の英書を買い込んで日本に持ち帰った彼は、病院や銀行、議会など、西洋の社会制度を紹介する著作を発表します。1868年、明治維新の年に福沢は、江戸に開かれていた蘭学塾を「慶応義塾」と名付け、教育活動に専念します。彼の教えには西洋社会に学んだことが大きく反映されています。彼の残した著書『学問ノススメ』の冒頭にある「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉や、彼が唱えた自由や権利、男女平等の思想などは、西洋文明に触れ、その社会を形作る考え方から大きな影響を受けたことを物語っています。

 外国からやってきた、それまで見たこともない巨大な船は、当時の日本人の目には新奇なものとして映ったでしょう。時代は江戸から明治へと、日本という国が大きく変わっていく時期にあり、国の行く末を案じて多くの人たちが意見を対立させただろうと思います。しかし多くの若い日本人たちがその船の来航に心を動かされ、彼らの人生が新しい時代への展開と、開かれた世界に突き動かされていった姿を、このエピソードを通じて垣間見たような気がしました。

 時は経ち、後の時代に生きるわたしたちが置かれている状況も大きく変わりました。情報はすべての人に開かれ、海外にも自由に行き来することが可能になりました。技術が発展し、近代社会の基盤が整備され、国が豊かになった今、そこに生きる人々—わたしたち自身—の心を見つめてみると、時代がどんなに変わっても人は同じような悩みを抱え、先が見えない未来に向かって希望や不安を抱きながら生きているようにわたしには思えます。しかし「世界を見てみたい」と、危険を冒してまで外国の船に乗り込もうとしたり、外国で見たものやあたらしい考え方を、国の多くの人たちに伝えようとしたかつての若い日本人がいた。彼らの人生を辿ってみると、彼らのその熱量、情熱が、時代を動かしてきたのだと実感します。その思いは、現代に生きるわたしたちの心にも届きます。何かを知ろうとする原動力や、未来を切り拓いていく力はこの熱量にあるのではないかと思います。

(堀之内)